大好きな人を待つ

もう35年以上も前のことになります。パリへ行って、しばらく暮らして、驚いたことがあります。驚いたというより、パリにいる間じゅう、ずっと感激させられていたことです。それは多くの食べ物にはっきりとした旬、季節があったことです。
えっ?そんなのあたりまえじゃないかって?えー、日本は四季がはっきりしていて、季節感を大事にするところですから、あたりまえかもしれません。でも、彼の地での印象は私には鮮烈かつ強烈なものでした。

秋、ちょうど今頃はぶどうやきのこ。野生のきのこの種類の多さと香りの高さにはびっくりです。ここは田舎じゃない、大都会パリなのにと思ったものです。
秋深まれば、なんといってもジビエ。鴨、鳩、野うさぎや鹿、いのししまでもが、姿のまま肉屋の店先に並ぶのは圧巻です。この時期だけの、うずらとぶどうのローストは私の得意料理のひとつでした。血でとろみをつけた野鹿の煮込みなどは、あまりにも強烈な風味のため、これっきりでいいかな(?)とおもわせるほど。でも次の秋にはまた食べたくなるのだから不思議です。
そして、あの洋なし。確か11月だったと思います、ウィリアムという品種の洋なしがほんの2~3週間だけ出回っていたのは。近づくだけで匂う、熟成したお酒のような香りと、くだものとは思えない、ほとんどクリームのようにとろける食感。芳醇な香りと内に秘めた上品な酸味は、極上の貴腐ワイン、シャトーディケムを想わせるほどでした。

冬、クリスマス・シーズンは、フランス中の美味が集まってきます。フォアグラ、トリュフ、スモークサーモン、ブレスの鳥・・・。冬のパリは上を見れば雲ばかりだが、下を見ればおいしいものばかり。

長い暗い冬が終わりに近づくと、春野菜がいっせいに出てきます。葉つきの可愛らしいにんじんや玉ねぎ、グリーンピースやいんげん、かぶ。すべて裸のまま、八百屋や市場にうず高く積まれます。その新鮮な輝きは、手でおしのけたくなるような低い暗い雲をいっきに取り払ってくれるような気分にしてくれます。これから始まる明るい解き放たれるような季節の到来をつげてくれるかのようで、なんだかうきうきしたものです。

6月にはアスパラガス、フランスのアスパラガスは感動的なおいしさ、私のアスパラガスの概念を完全にふきとばしてくれました。きのことしては珍しくこの時期が旬のモリーユ(あみがさだけ)は強烈な香り。アスパラとモリーユを合わせた鶏肉の煮込みは、様々な香りと味のシンフォニーのよう、この時期だけの楽しみのひとつでした。

夏が近づくと、「もうすぐ赤いフルーツの季節だよ」といって、新聞、雑誌、テレビ、道行く人の話題になり、みずからとひとの気持ちをかきたてます。
真っ赤に熟した芯まで赤い苺、その豊かな香りは、やはり、よく知っている果物だと思っていた私の苺に対する概念を吹き飛ばしてくれました。
さくらんぼ。うず高く積まれたものをスコップですくって、紙の袋にどどっと入れてくれ、500グラム、1キロという単位で買って帰るのですが、帰り道で随分減っていたのを思い出します。今だけと思って、くる日もくる日も食べるので、この時期は指先がむらさき色に染まってなかなかとれなくて、困ったものでした。
そして、あのラズベリー。妖艶な香りは、まさに筆舌に尽くしがたい。最高級の三ツ星のレストランで、技巧をつくしたきらびやかなデザートの中に、この時期だけ、生クリームを添えただけのラズベリーがメニューにあったのを思い出します。ただラズベリーだけが器にはいって、軽くホイップした生クリームが添えてあるだけなのです。一緒に口に運んだら、な、なんだこれは!・・・身体中の細胞がとけてしまったかのようでした。

何だろう、旬の食べ物を待つこの気持ちは。大好きな人を待つ気持ちに似ている。久しぶりに会える心の友、元気そうだがどんな顔してるかな、自分は変わっただろうか、積もる話・・・、日ごとに会えるよろこびと期待は深まって、そして・・・。そんな気持ちに似ている。


あふれる香り、味は、その時期だけ、短いからこそ、命を一瞬に凝縮したかのようなパワーを感じさせます。旬の時期が過ぎると、残念ながら別れのときです。でも、こんなに楽しませ、喜ばせてくれたのだから、充分満足。また来年、その時期が近づくとワクワク、ドキドキ、なんというよろこびなんでしょう。
一年中いつもあってほしくなんかない・・・
お願いだから、この無上のよろこびを奪わないでほしい・・・